知る日々の日記

日記の再録です

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また厄介事が起きて、人々が村長のところへ伺いに行く。

「山も、田んぼもおかしい。このままでは来年食うものがない」

小さな祠のような住まいに一人で座っている媼が村の長である。

「お前たち」

人々は媼の顔を伺う。

「お前たちと、田と、山と、お前ら三つのものたちに、同じものが通っているな」

「同じものってなんだ」

「土だ、お前たちは土から来て土へ還る、土を見ろ、お前たちは一つだぞ、お前らと田と土は併せて三土だ、お前たちが土のためにしなきゃいかんことをやれ、それ以外に何がある」

人々は自らが土であることを忘れていた。すぐさま田へ戻り、土を見た。山へ登り、土を見た。

 

ある男が媼のところへ来た。

「毎晩、俺のところへ来る鬼がいる、あれは悪霊だ、どうすればいい、このままじゃ祟り殺される」

媼は男の目を見た。

「その悪霊の出どころに心当たりはあるか」

「知らねえよ、悪霊なんか」

「では、なぜそれが悪霊だとわかるのだ」

「わかるもなにも、おっかさんがよく言っていた、夜中に家に来るおっかないやつはみな悪霊だ、今回もきっとそれに違いねぇ」

「おまえのおっかあはもう死んでるな」

「ああ、5年前に」

「そうか、では三暗だな」

男は顔を上げて聞く。

「三暗?」

「そうだ、お前の顔は暗闇に怯える子どものようだ、お前の母は死んで暗がりを住処とし、悪霊もまた暗い闇の中でのみお前に接触しようとする。お前たちは別々の何かではない、一つの三暗として一体なのだ。ここでお前が暗がりから抜け出ることは容易いが、それはお前の母を悪霊と同じところへ放って置くことになる」

「だめだ、そんなカワイソウなことはできねぇ」

「それなら、おっかさんも暗がりから出してやることだ」

「どうすりゃいい」

「おっかさんに毎日祈れ、おっかさんに話しかけろ、おっかさんが明るいところへ行けるように」

男は媼の顔をじっと見て、小さく頭を下げて家に帰った。すぐに祭壇を、部屋の一番明るいところに用意して、おっかさんの好きだった小さな丸い石を祀って、祈り始めた。それから毎朝、毎晩、男は祈った。男は死ぬまでおっかさんへの祈りを欠かすことはなかった。

 

若い衆が媼のもとへ、血相を変えてやってきた。

「おばば」

「だれがおばばだ。まあいい、何だお前ら」

奥にいた若い男が媼の前に布切れを一つ差し出す。

「これは山裾のケンゾウのものだ。隣村で喧嘩に巻き込まれて死んだ。あいつは人の気持ちのわからないくずだったが、だからといって殺されていいようなやつじゃない。俺達はいまから隣村の奴らを一人殺してくる。これは相談じゃない、誰よりもこの村で尊敬されているおばばに隠し事はできん、だから伝えに来た。俺達は行く」

媼はシワだらけの肌に埋まっている小さな目で若い衆を見た。馬の大群にも素手でかかっていきそうな、若い人間の血気である。

「そうか、ではお前たちは殺すのだな」

「そうだ」

「そうか、それなら殺してもよい。しかし、その殺しとケンゾウにはなんの関係もないと、今ここで宣言しろ」

「何を言う、おばば」

「何を言うはお前らだ、隣村の人間がケンゾウを殺し、お前たちが隣村の人間を殺す、ケンゾウがそれになんの関係がある」

「おばば、言っていることがおかしくないか、殺されたのはケンゾウだぞ!」

「わかっとるわ!」

しばしの沈黙。外で風の鳴る音がして、媼が口を開く。

「ケンゾウが殺された。しかし、ケンゾウは誰を殺した」

「ケンゾウは殺しとらん」

「それなら、なぜケンゾウの側に立ってやらん」

「ケンゾウの側に立つからあいつらを殺しに行くんだろうが」

「違う、お前たちは隣村の人間を殺すことで、そいつらと同じ(殺すもの)になるのだ。ケンゾウは誰を殺したのだ」

「…」

「ケンゾウは誰も殺していない、違うか?」

「そんなこと…」

「いまここでよく考えろ、ケンゾウは殺すものか?」

「いいや、くずなだけだ」

「そうだろう、ケンゾウはくずだが殺してはいない、お前たちも今、まだ誰も殺すものではない、お前たちはケンゾウの側に、いま、すでに、いる」

「しかし、おばば」

「なんだ」

「それじゃ、あんまりだ」

「なにがだ」

布切れを持った若い男は力なく絞り出していった。

「それじゃ、ケンゾウがかわいそうじゃないか」

媼も答えて言う。

「そうだな、ケンゾウがかわいそうだ。わしもそう思う。だからお前たち、ケンゾウに墓を作ってやれ。あいつの山裾の家に小さな山桜があっただろう。あれの下に、お前たち全員でかかって持ってこられる、一番大きな岩を運んでこい。そうしたら、お前たちめいめいで持ってこられる、一番大きな岩をそれぞれ一つずつ運んでこい。そうして、たまに山桜を見に行って、酒を飲め。ケンゾウの山桜をお前たち全員でかわいがってやれ。この世界に、こんなに愛された桜はない、と思うくらいに大切にしてやれ。その桜を見るとき、ケンゾウをかわいそうだと思うやつは一人もいないだろう」

「本当に、そんなことで」

「そんなことでだと?それなら一度やってみろ。とりあえず三年だ、三年毎日ケンゾウに祈れ、そして桜に手をかけて、岩を撫でろ。それでも足りないと思うなら、それから殺してやれ、お前たちもその頃にはもう少し知恵がついとるだろうから、殺すなら殺すでもっといいやり方が思いつくだろう。しかしまずお前らの悲しみを、その硬い拳に込めるのでなく、手のひらでケンゾウの形見の山桜に触れるところから始めろ。それからで遅いことなんかありゃせん」

若い衆はうなだれて、自らの手を見つめる。

「なあ、おばば」

「なんだ」

「ケンゾウに、そんな大きな岩が必要かね」

「さあ、知らんな」

「なあ、そこの漬物石もらってっていいか、ケンゾウ、おばばの漬物好きだったろう」

「ああ、よく盗られたなあいつには。いいだろう、持っていけ。明日までに変わりの石をもってこい」

「ありがとう、おばば」

若い衆は黒光りするおばばの漬物石を持って山裾のケンゾウの家に行き、姿の良い山桜の下にそれを置いて、七人で手を合わせ、酒を飲んだ。

 

おばばが亡くなってかなりの時が過ぎたが、いまも七人とケンゾウの宴は続いている。