知る日々の日記

日記の再録です

虚構掌編試み (出来事を偶然と捉えるための条件の探索)

朝焼けの山が三つ重なってひとつの姿となっている。それらの山の又のところ、山裾から二つの川が流れてくるが、それは山が流れてきているとも言え、一昨日の大雨が含まれていればあの時の雲が流れてきているとも言え、その雲の発生した台湾沖が流れてきているとも言える。わたしの街には台湾が流れている。

わたしの街とはどこのことを指すか、即ちそれはこの街であり、この街はわたしが去年越してきた街、しかし20歳まで住んでいたあの街も所謂わたしの街とも言え、去年まで住んでいた街もわたしの街である。その中では台湾が流れる街が一番綺麗で、最初の街は山のない街で山に似た形の丘があるだけだった。丘は川を作らなかった。川のない街はある。川がないから水がない。水がないからわたしは困って、国から送られてくる水を飲むのが癪で、かと言ってどこかの会社が作った水を飲むのも癪で、雨水を飲んで暮らしていた。三階建てのぼろ家を借りて、屋根に大きなじょうごをつけて、一階まで一本の管を伸ばして、間に小さな石や砂や草木を詰めて濾過層にして、ぽたぽたとくる水をやかんで熱してペットボトルに詰めて飲んだ。川を台湾は流れなかったが、わたしの家の三階から一階へ、台湾は滴っていた。

20歳まで住んでいたわたしの街は本当のことを言えば街ではなかった。ぽっかり空いた穴だった。穴にうずくまって餌を食っていた。ある日わたしはその穴を出たいと思った。すべてを振り払って穴を出た。穴は小さかった。なぜ20年もこんな穴にいたのかわからなかった。わたしは歩き出して、いろんな街をわたしの街にした。

目尻が渇いて立ち上がった。この川べりには小さな草が二億本生えている。虫が八千匹いて、死体が五百体埋まっている。静かなところだ。夜空にカタール行きの飛行機が飛び、アラビア語の名前がついた遠い星が瞬いている。山では今日もいくつもの命が終わり、街でも終わり、それとは全く関係のないまた別の命が始まっている。わたしにはまだいまがある、生きているらしい。生きているので、死なないでいいらしい。山が震えている。川が歌っている。命が殖えて、消えている。