知る日々の日記

日記の再録です

2024.7.24

23時頃就寝。7時起床。

ここ数日の頭の整理が効いてきたのか、気持ちの楽な状態で朝の時間を迎えられる。

仕事。ドリンクの試作。作っているうちにどんどん味付けが薄くなってきて、他の人に飲んでもらうと「もっと味濃くていいよ」と言われ、一回「これは濃すぎる」と思った地点に戻すことになるのでそこからはもう自分では「適度なところ」がわからなくなる。試作は必ず他の人の意見をもらいながらやらなきゃいけないな、ということを何度目かの再確認。

昼食。同僚の方とおしゃべり。苦手なことをクリアするには何度も繰り返して壁を乗り越える必要があるけれど、それがどうしてもできないこともあり、その点においては「努力ができない」人間と見られるけれど、一方で他者からは努力して壁を超えているように見えることが自分にとってはなんでもない散歩だったりする場合もある。この日記も一度パソコンを開けばいくらでも書けるし、全くつらくない。他者を見るとき、特に子供を育てるときは、親から見たら「そんなことに夢中になって」みたいに見えることでも邪魔せずに好きなだけさせてあげることがその子の将来のためには大切なんでしょうね、みたいな話をする。

地域あたりの人口が少なくて、その地域を維持していくことが生きることに直結していた時代は、そこに住む人々は今より多くのことをこなさなくてはいけなかった、そうするとたとえ苦手なことでもある程度はできなければいけないし、他の人より秀でてできる必要もなく、それが生活に役立てば十分に価値があった。

現代は自分ができなくても対価を払って誰かに頼めばいい時代になり、そうなるとオールマイティにできなくても、なにかに特化していればどこかに生きる道はある場合が多くなった。もとからオールマイティにできる人はよいとして、苦手が多くてそこまで負けん気もない場合、何度繰り返してもそこまで苦痛ではなく、むしろ少し楽しいくらいで、なおかつその「繰り返しても苦痛ではないなにか」の周辺に生きる道を見つけることが現実的な選択肢として挙がってくる…みたいなことをふんわり思う。

午後は外仕事。剪定材を燃して、柑橘類の剪定。これは最近調べたことだけど、常緑樹は8月から花芽の分化が始まるので、その前に不要な枝をすいてやることで日当たりをよくし、来年の花を増やすことができる。そのための剪定はこの時期に行うのが良い、とのこと。

退勤。昨日近くのリサイクルショップで家具を3つ買ったのだが車に一つしか乗らず、今日受け取りに行ったら家具と交換するためのレシートを受け取っていなかったことが発覚。店員のお兄さんが「これが多分あなたのレシートなんですけど、、、」と言いながら困った顔をしている。昨日焦りすぎてレシートの受け取りを忘れていたわたしがいけないので、購入時に対応してくれた店員さんが出勤する日に受取に来ることにする。

ベイシアに寄って帰宅。米びつを見て米がないことを思い出す。明日も買い物にいかなければ。

ノートを開いて思いつくままにペンを走らすうちに、自分の意識がある脳内の空間が整理されていくのを感じる。もう少しで回復できそう。

しばらく「仕事と生活が一体になった暮らし」みたいな状態になっていて、私はそれが苦手なんだなと感じる。というか、仕事と生活が一体になるのはかまわないのだけれど、それだけが人生になるとだめ。だらりとした時間、なにも産まない、ただ自分が存在していることの嬉しさに浸る時間がないと終わってしまう。仕事と生活とだらり。だらりを忘れず過ごしたい。