知る日々の日記

日記の再録です

【短篇】部屋

この部屋には、入り口に相当する通路も、出口に見合う扉もなく、真ん中に小さな机と椅子が一組置かれてあるのみ、見渡す限り、意思の疎通が取れそうな相手もいない。
最初に目覚めたとき、私は一人で座っていた。目の前には小さな机とノート、そしてペン。目覚めたばかりの私にも、それらは書くものと書かれるもの、そして書かれるものを支えるものであることは理解できた。この椅子は私を支えるもの。それでは一体、私は何をするものか?
考え出すより早く、私は書き出していた。今唯一、私にできることは書き出すことだった。
書く内容はどうでもよく、ただ、この瞬間に書き出すこと、それだけが私に可能なことであった。
「おはよう」
振り返るとタケシがいた。タケシとは誰だろう?
「おはよう」
私は答えた。タケシは続けて言った。
「お前、もうすぐだぞ。いいのか?準備はできたのか?」
「なんのことだ。私は何も聞いていない。」
「これまで私が尋ねた者で、既に知っていた者など一人もいなかった。誰もそれを知らないのだ。それでも、それが来るということだけは知っている。」
「つまりどういうことだ。」
「つまり、などと言われては困る。ただ私は、準備ができたのかを聞きに来ただけだ。」
そう言って、タケシは部屋を出て行った。タケシが出て行った場所は、この部屋で最も出口に相応しい場所のように思えた。
「私は準備を続けることにした。私にとって書くこととは準備をすることとニアイコールの関係にあるようだ。」
私はノートにそう書いた。
「考えることと信じることは遙か遠くにあるように見えて、本当は極めて近くにあるものだと、そう思えてくる。」
誰かの受け売りの言葉をノートに書く。いけない、これではこのノートを書く意味がない。

「朝起きて家を出る。門扉の手前の植栽に、露草が青くて可愛らしい花をつけているのを見つける。」
だからなんだというのだ。
「おはよう」
振り返るとキヨコがいる。キヨコとは誰だろう?
「おはよう」
私は答える。
「ユウジ、準備はできた?」
私のことだろうか?
「ユウジが誰かは知らないし、準備が何を指すのかも私は知らないのだ。さっき来たやつもそれを知らなかった。君もただ準備ができたかだけを聞きに来たのか?」
「そうね。私はヤスエ。キヨコじゃないわ。でも、準備ができたか、それだけを聞きに来たのは正解。」
「ヤスエ、私はまだ準備ができていない。」
「そのようね。それじゃ、また。」
それから何度も私に準備ができたかを確認する訪問者が現れ、そのたびに私は同じ答えを繰り返した。

私が初めて目覚めたとき、この部屋には入り口も出口もなかったが、今は訪問者のやってくる方向が入り口で、彼らが帰っていく方向が出口であることに落ち着いた。
私は書いてきたものを眺めた。どれも、見返すほどの価値はないが、その時に私が書いたもの、それそのものとしての存在は、私にとって価値がある、ということにしている。
「おはよう」
振り返るとユリがいる。ユリは1134回前に訪問に来て、準備とは少し関係のない話をした仲だ。訪問者の内でも気を許している部類に入る。
「おはよう。生憎だが、準備はまだできていないよ。最も、準備ができたというのが何を指すか、未だに私にはわからないがね。」
「エイタ、それはつまり、準備ができていないということが何なのかも、あなたにはわかっていないということなの?」
今日の私はエイタか。
「言われてみればそうかもしれない。遠い昔に、『準備はできたか』と聞かれて、準備が何を指すかも知らず、ただ、私の手元に『できているもの』など何一つなかったから、できていないと答えた、それをただ、口の中で反芻している内に、こんなにも多くの問答を重ねてしまっただけなのかもしれない。」
今日の私はやけに素直だ。これは私の気分だろうか、それともユリの再訪がそうさせるのだろうか。
「そうなのね、わかったわ。じゃあ、質問を変える。エイタ、あなたは準備をし続けているの?」
「だからね、ユリ。私には準備がなんなのかわからないのだよ。つまり準備をしているのかもわからない。最初から答えようのない問いに直面し続けているんだ。最初に『できていない』と答えたのが軽率だったならあやま」
「そうじゃないわ。準備をし続けているのかいないのかだけを聞いているの。どちら?」
「・・・」
「どちらなの?」
「・・・準備をし続けているよ。」
「何の準備を?」
「・・・」
「何の?」
「・・・亀の羽化だよ」
「亀?」
まさかこんな話をする羽目になるとは。
「私は夢を見たんだ。ほら、この部屋のあの隅に寝ている亀が見えるだろう。あいつはいつか羽化するんだ。それを待っているんだ。」
「羽化の話はいったん措くとして、その羽化のためにあなたは何を準備しているの?」
「賛美歌を作っているんだよ」
「賛美歌?」
「そうさ、賛美歌さ。羽を持ち、自由に空を飛ぶ亀を称える歌を作っているんだ。」
「その歌はなぜこんなにも長いあいだ、日の目を見ずにいるの?」
「わかりきったことだろう。私は一度も、亀の飛ぶ姿を見たことがないからさ。」
話の一部始終を聞くと、ユリは帰って行った。
部屋の隅を見ると、目を見開いたまま亀が眠りについていた。私は、自分の体がうずくのを感じた。
翌朝起きると、亀は死んでいた。もう、亀が飛ぶこともない。

私は部屋を出ることにした。机の下の柔らかい部分を押し広げると、外に出た。私の体はまだ柔らかく、しばらく夜風に当たると徐々に固まってきた。羽根を広げる。腹を揺らすと音が出る。なんとも言えない、太い声だ。ついさっきまで暮らしていた部屋に目を移す。なんと窮屈そうな、狭い部屋だろう。片隅で亀が小さくなっている。亀よ、安らかに。その部屋は心なしか薄明るく見え、音のない場所に鳴る音、いわゆる無音が空間を満たし、その音はまるで亀が鳴いているかのように聞こえた。私は羽ばたいた。小さな羽根をせわしなく動かし、机も椅子も、ノートもペンも、タケシもヤスエもユリもない、新たな世界へと旅立った。

「蝉の抜け殻」 2023.7.26