【短篇】草原とその表情

山の麓の開けたところに、穏やかな小川がひとつ流れている。その小川は草原の中を緩やかにカーブしながら流れ、傍らに小さな掘っ立て小屋がひとつ、申し訳なさそうに佇んでいる。小屋の隣には、何のための動力か、小屋より少し背丈の低い木製の水車が、小川の流れに圧されて廻っている。夕暮れの空気に浸った草原は薄赤い光と薄青い光の混ざった色調を湛え、水車に持ち上げられた小川が草原を映し、飛沫となって小川に還る。すべての生命に心地よい風が吹き、草花は柔らかく揺れている。
ダニエルは小屋の扉を開けて外に出る。
「もう五ヶ月になるかな…」
と、誰にともなく呟く。正確に言えば彼がここに来てまだ三ヶ月ほどだが、それを報せてくれる相手はどこにもいない。
彼は小屋に立て掛けてある小さな木の椅子を取り、軒下に干してあった羊のムートンも取って小川のほとりに座る。水面の刻一刻と移り変わる様を眺めて、これまでに出会った人々の顔を思い出す。ジュリア、ヤスパースメイリー…彼らの表情は水面のように絶え間なく移り変わる。

しばしの追想を終えて小屋に戻ると、既に部屋の中は暗く、彼はくべる薪の量を増やす。
今朝郵便局員から受け取った、彼がよく使う偽名に宛てられた見知らぬ名前からの封筒をカッターで開けると、旧友ユゼフからの手紙が入っていた。


「やあ親愛なる我が友、元気でやっているか?俺はついに国境を抜けて君のいる土地に足を踏み入れた。といっても、君のいる国が君の名前を知っているとは思えんし、君が君のいる土地を国というくくりで見ているかも怪しい。しかし我が友よ、俺はこういう見方で土地を見るのだ、昔から俺を知っている君ならわかってくれるだろう。酒を買っていく。君が酒を好まないことを俺は知っているし、それを俺が知っていることだって君は知っている。これはつまり、俺が酒を飲んで君にくだを巻く時間が君の家で発生することを前もって伝えているというだけのことだ。口がさみしくないように暇つぶしを考えておいてくれ。数日中に着く。では。」


手紙を封筒に仕舞って小箪笥に入れる。こうやってユゼフが連絡を寄越すときは大抵面倒な話を持ってくるに決まっている。いつもより苦い茶を作るとしよう。

「やぁ、ダニエル。調子はどうだ?」
「君から連絡が来るまでは絶好調だった」
「つれないことを言うな。長旅で疲れた。川を借りるぞ」
「ああ、小屋より川下で頼む」
「わかってる」

ユゼフは汗を流しに川へ飛び込む。そもそも川は私のものではないが、礼儀として彼は私に聞く。私も礼儀としてそれを許可する。人の世は礼儀で成り立っているのだと私に教えてくれたのは彼だ。その意味で、私は彼のおかげで人間らしくいられている。感謝するほかにどうしようもない。彼の急な連絡にも応答し、彼の面倒な話にも相づちを打つのは、少しでも彼に報いたいという私の礼儀でもある。
人間らしくいることは私の小さな孤独を減らすためにとても重要な行為であって、それでいて私一人ではその適切な方法を見つけることができずにいた。すべての人間関係を対症療法的にこなしていた私にとって、彼は人間のお手本のような男だった。私にとって、礼儀の上に築かれる友情は心地よく、彼との友情はほかの何物にも代えがたかった。

彼が川から上がってくる頃合いを見据えて肉のミンチを丸く固めて焼く。ここらでは滅多に手に入らないものだ。
彼はどこで仕入れてきたのか、色の薄い葡萄酒をコップに注ぐ。私は昨晩から茶葉を漬けておいた甕をかき混ぜ、コップで液体のみを掬い取り、机に置く。
「我々に。」
そういって持ち上げたコップの角を当て、それぞれの液体を胃袋に注ぐ。久々の再会に話は弾み、空も白んでくるころになって少し互いの気分も落ち着いてきた時、ユゼフの目がらんらんと輝きだす。
「ダニエルよ、君に会うことができて、俺は本当によかったと思っている」
「なんだユゼフ。急にそんなことを言って」
「ダニエル、俺はどんな時も自らを貫いてきた。不可能と思えることも、その不可能に見えるということを挑む理由にしてきた」
「…」
「ダニエル。君ならこの私の言葉を、言葉そのものの意味として受け取ってくれると思ってここに来た」
ユゼフがこれほど穏やかに、朗らかに話すのを、私は見たことがない。
「何が言いたい、ユゼフ」
「ダニエル、俺は消えることにした」
「……」
「消えるというのは、ただ君の前から消えると言うことではない。この世界から…俺という物的存在が消えるということだ」
「………」
「これは決断だ、ダニエル。誰かに強制されたことではない。俺が、俺の意思で選んだことだ。俺はこの世界から消える。その前に君に会っておきたかった」
私はやっと一言を絞り出す。
「なぜだ…?」
ダニエルは黙って俯いている。そして、言った。
「理由は山ほどある。そして、そのうちのどれを取り出したところで、十分な理由にはならない。ただ、もう、そうなってしまったのだ……」
ユゼフの大きな瞳が潤み、今にも何かが溢れ落ちそうになる。私は必死に、彼のその、落ちてはならない何かを押しとどめる言葉を探す。
「…まず、君が消えたくなってしまった理由を教えてくれ。理由として十分ではない、それら一つ一つを私に教えてくれないか。時間がどれだけかかるかはわからないが、一緒に、ゆっくりとそれらを見つめてみよう。そしていつか、それらがあるままでも耐えられる、消えたくない理由を見つけよう。どんなに私が策を練ったところで、君の心に入り込むことはできない。ユゼフ、君の心は広大なサバンナのごとく私の目に映っている。まだいくつかのしなびた木が生えて、少しの雨を待っている。二頭のシマウマが歩き、そのあとを小さな子供のシマウマが追っている。風が吹き、砂が舞い、空を舞う塵が模様を浮かべている。ユゼフ、君が消えたら私はこの景色をどこで見ればいい…」
「…」
「私はね、ユゼフ。この小屋を見つけて、すぐに気に入った。それはこの水車のためだ」
彼は小屋の壁に目をやる。
「この水車はなにもしていない。ただ川の流れに沿って廻っている…」
「…」
「なぁ、もう一日ここで過ごしてみないか。消えるのは、それからだって遅くはないんじゃないか…」
「…」

 

二人は眠りについた。ダニエルは、ユゼフの瞳を思い出していた。その瞳は、こちらを信頼している大型犬のようにも、遙か深いところからの水を湛える、暗い井戸のようにも見えた。


翌朝、彼はひとつ、小さな山羊の像を机に置いていった。

 

 

私に人間の一部を授けてくれたユゼフ。君のおかげで私はこうやって存在している。

 

ユゼフ。君が消えても、私はここにいる。私はこれまで、こんなに苦い茶を飲んだことはない。

川下で泳ぐ君。好きな酒を私に遠慮なく飲む君。私の飲む茶を横目で眺める君。暖炉の揺らめきに照らされる君。酔った君のあらゆる暴言と、あらゆる視線、あらゆる表情。これから君と新たな思い出を作れないことは残念だが、僕は一方的に君を思い出すことにしよう。ありがとう、ユゼフ。静かな時間に、僕はいつも君を思い出す。