知る日々の日記

日記の再録です

【短篇】過去の住む長屋

茶店の横道を一本入ると、どん詰まりに錆び付いたトタン屋根の長屋がある。仕事に行き詰まったとき、人間関係に躓いたとき、そもそもの仕事も人間関係もなくなったとき、決まってこの長屋に顔を出す。
隙間風どころでは済まなそうな戸の前で「御免。」と声を掛けると、遠くから足音が聞こえる。しばらくすると小柄なじいさんがひょっこり戸を開けてくれる。
「やあどうも、ご無沙汰ですな。」
「しばらく何の抵抗もない日々を送っていたんで、ここのことをすっかり忘れていた。それがこないだひょっと空を見上げた隙に、旧い友人のことを思い出した。やつも生きていれば俺と同じく歳を取り、俺とは違う何かを見つけていたんだと、まあ油断だな、そう思ってしまって、やりきれなくなった。そんなことで一々躓いていては日常を作れないから普段はすぐに我に返るんだが、今回はどうしてもうまくいかない。それでここに養生に来たって訳だ。」
じいさんはどこからか取り出した茶をすすりながらこちらの話を聞いていたが、「そうでしたか。では、こちらへ」といって中へ入った。
靴を脱いで広間へ上がる。いつもの茶碗を出して、番茶を注いでくれる。小皿に小さなすあまが三つ。
「それで、そのご友人はいつごろ」
「二十歳になる前だ。最初に出会ったのは六つの頃だったかな。身体の動く賢いやつだった。自分ってものがはっきりする前に出会って、あいつと一緒に人間になったような感じがある。意気投合する前のことは一つも覚えていなくて、気づいたときにはそこにいたようなもんだ。」
「なるほど。」
「俺もあいつも『生きがい』を探すのに必死だった。生きる理由とその価値を見つけたかった。あらゆる人間が否定しても自分だけはこれを信じられる、そういうものを見つけたかった。それにすべてを注いで生きていたかった。そして互いにそれを見つけて、それを失って、俺より先に向こうが死んだ。俺はまだのうのうと暮らしている。どこに俺とあいつの違いがあったのか、未だにわからん。」
「そうですか」
じいさんは俺のすあまを食べていた。
俺も一つ取って食べる。
「そのご友人のことで真っ先に思い出すことは何です?」
「そうだな、そいつの家で小さな紙飛行機を作って投げたりしていたんだが、それを限界まで折りたたむとカチカチの紙飛行機ができて、もうそれは紙飛行機ではないただの塊なんだが、それを野球ボールでも投げるようにして本気で投げたら、そいつの家の壁に傷がついた。そんなことをまず思い出すよ。」
「そうですか。そんなことがあったんですな。」
じいさんは俺の茶碗に茶を注ぎ、自分のにも注ぐ。残り一つのすあまを竹のさじのようなもので二つに割り、小さな方を自分の口に放り込む。
「その方のことはこれからどうするおつもりで」
「どうするもこうするも…もう死んでしまったやつのことだ、どうにもできなかろうよ。」
「そんなことはありません。勿論、生き返らせるだのということではありませんが、その方のことをあなたがどう抱えてゆくか、そういうことはあるでしょう。そのことについて私は聞いたんです。」
「どう抱えていくかねぇ」
「私には遠い昔に亡くなった、顔も知らない弟があるのですが、その者のことは未だに心に抱いております。どうにもこうにもできるものではありませんが、ただ、心にその者のための空間を用意している、ただそれだけのことですが、そのことは誰が何を言おうと変わらぬことです。」
じいさんはそういって茶をすする。
「あなたも既にそういう空間を心にお持ちだ。それは終生変わらないでしょう。であればこそ、その空間にたまには花を飾ってやったり、本を持って行ってやったり、こうやって私とするように、卓を挟んで顔を合わせたりしてやるのも、たまにはいいのではないですか。」

「うむ…」
俺はあいつの死を、悲しみと同じか、もしくはそれ以上の憤りでもって迎えた手前、あいつのための花や本など用意するのも嫌だと思い込んでいたが、時が過ぎて少しずつその想いも風雨に磨かれ、花の一本、本の一冊くらいは渡してやってもいいかという気になってきた。いや、これは時の経過ではなく、目の前にいるじいさんの顔が、急に俺を変えてしまったような気もする。
「じいさん、俺は思い出したよ。」
「なんです。」
「あいつの出棺の時な、小さな文庫版の『論語』を一冊入れたんだ。視野の狭かったあいつに、少しでも外の世界を学ぶように、一級の古典としてそれを入れたんだ。しかしな、じいさん。俺は論語を全部読んで薦めたんじゃなく、嫌味で入れたような面もある。今ならあいつに本当に薦めたい本がいくらもあるよ。それをいくつか、心の部屋に置いてこようと思う。ちょっとした手紙も添えて。」
「なるほど。いいんじゃないですか。」
「ああ、我ながら妙案な気がしてきた。」
「そうですな。」
半分になったすあまを放り込み、茶を飲み干してじいさんに礼を言う。彼はほんの少し頭を下げ、ではまた、といって奥に引っ込んでいった。

戸を閉めて細道を引き返し、喫茶店を抜けて大通りへ出る。右から左から数多の人が行き交う道をぼーっと眺めて、ひとつ深呼吸をして気を入れ直し、歩き出す。すぐにその姿は人並みに紛れて見えなくなった。通りには多くの人が行き交い、細道の奥にはトタンの屋根の、一軒の長屋が佇んでいる。