知る日々の日記

日記の再録です

風はこの肌に。線は柱に。

静かな家の中庭で、しだれ桜が揺れている。緑の葉がさらさら揺れて、それを眺めている私の肌にも風が当たる。この時、間違いなく私は生きていると思う。いま、この瞬間、生きている。他の誰でもない私が、いま、生きている。その実感がある。

 

実家の柱には私の身長が記録されている。2010年10月8日、と書かれた横に線が引かれていて、その一ヶ月後にまた線が引かれていて、少しずつ私の背が伸びているのがわかる。私はもう、その時の実感は持っていない。しかし、その時それが行われていたのだと、母や父と話して確認することができる。私はティッシュ箱を頭に乗せて、それを定規として当時の背丈に線を引いた。線を引く場所は時が経つごとに高くなり、今やその柱では私の背を測ることはできなくなった。身長の変化を観測すること、そういう仕方で私というものを捉えるなら、私は少しずつ身長が伸びる生き物であり、それは線を見る限り等間隔ではなく、時期によって波があり、健康診断の結果を見るならばいまだに少しずつ伸び続けている。これは私を観測するという仕方の一例。

 

実感と観測。実感はそのわがままさと個性ゆえに、私に生きる意味を与えてくれる。みんなに当てはまる【私の】生きる意味なんてものはない。

観測は現実世界の他者と共有されたフィールドを土台にしていて、他者とその観測結果をシェアできるという意味で、普遍性のあるブレのない筋道を立ててくれる。それは、私の行為を効果的にすることに役立つ。

 

実感と観測のどちらも大切で、どちらも少しずつ伸ばしていくと、なんとなくよい感じになるんではなかろうか。桜は、私の観測によれば、春頃になると綺麗な花を咲かせる。それを見るとどうしようもなく私の心は満たされる。その時季が来るのを見るために、あと半年、また生き延びてみるのもいいと思う。