知る日々の日記

日記の再録です

2024.8.5

子供の頃、落語を聞きながらイヤホンをしたまま眠るのが常だった。その癖は今も続いて、スマホのタイマーをセットしてYoutubeで漫才を聞いていると寝つきがいい。サンドウィッチマンの漫才は長年睡眠のお供になっているし、最近は令和ロマンの漫才がよく眠れる。

  昔みた動画で、とある元スリの男が壇上に上がり、人間の認知能力について話す講演があっ。人の認知能力は瞬間的にはある一つのことにしか集中できず、同時に二つを知覚することはできない、ということを実践して見せてくれる。おそらくこれと同じことが横になって漫才を聴いている私の脳内でも起きていて、リズムのいい話を聴いている間は他のことに一切集中力が向かなくなり、空想を鎮めることで意識の運動を抑えることができ、静かに一日の終りを迎えられるのかもしれない。

では、リズムのいい話で頭を満たしていないときの脳内はどうなっているのか。それはもう、すべての作物が100倍速で育つ畑のような状況で、色んなところで勝手なことが勝手に起きてどうしようもない、草刈りしないと何も見えなくなるのにトマトやナスはこちらを待たずに勝手に大きくなり、虫はどんどん増えて一瞬で無秩序になっていく、全くやりようのない状態になる。非常に疲れる。

小林秀雄の「秋」というエッセイを読んで、まさしくそうだと膝を打ったことがあった。それはこんな一文。

「…無論、みんな私の勝手な空想である。いや、空想が私に相談なく勝手に動くのである。」

とても短い文章なのだが、意識というものに感じる途方もなさを的確に描写してくれている。そう、この「相談のなさ」が非常に難しいところで、自分の中にコントロール不能な何者かがいる感覚があって、しかもそれが意識という、ついつい頼ってしまいがちな、「僕は君の味方だぜ」という顔をしている他者なのである。しかし、その実、こいつはまったく協力的ではない!

頭の中で起きることはついコントロール下にあると勘違いしがちだが、空想はこちらに相談なく勝手に動く、そしてまた意識というものも勝手に動く。その勝手さに付き合っているといつまでも頭の中がうるさい。よく整った一つのリズムに身を(意識を)委ねることで一つの秩序の中に自分を置き、空想と意識を抑え込むことが一日を終わらせるための重要なトリガーかもしれない。20年ほど前、枕元のラジカセに柳家権太楼のCDを飲み込ませて眠りについていた野崎少年はこのことに気づいていたのだろうか。どうだろうか。