知る日々の日記

日記の再録です

2024.4.30

6時起床。

日課の読書。いま読んでいる中では井上靖の「本覚坊遺文」がしっくり来る。千利休と行動を共にしていた三井寺の本覚坊と呼ばれる人物がいた。証拠はないけれど、彼の書いたものと思われる手記があり、それに井上が読みやすくなるよう手を入れた一冊。利休が亡くなって茶の世界から身を引いた本覚坊が、とあるところで旧知の茶人に声をかけられるシーンが冒頭にある。そこから本覚坊の回想は師・利休へ繋がり、今も心の内で話しかける師への想いと、その存在の理解できなさへの洞察が続く。

仕事。今日はウイスキーの蒸留。果物の時季が訪れる前のこの数ヶ月間にできる限りウイスキーを製造したい。麦という原料は保存性の高さに特徴があって、フルーツには旬があり、保存期間に限度がある。様々な種類の原料を見ることができる環境はそうそうないので、勉強になるし面白い。

蒸留器の仕組みを見ながら製造中の疑問を先輩と話し合う。一人だと出ない案が二人だとどんどん出てくる。三人寄れば文殊の知恵というけれど、二人でもまあまあのスピード感で知恵が絞られているんじゃないかしら。先輩には何を言っても頭ごなしに否定されるようなことがないのでどんどん話ができる。楽しい。

ある人とある液体を飲みながら話をしていて、「これおいしいですね」と言ったら「ほんとに…?」と言われた。

ほんとうにおいしい?と問われてしまうと私もわからない。なぜわからないのだろうと考えてみると、二つの要素がごちゃ混ぜになったまま「おいしい」という言葉を発してしまっていることが理由に思える。

まずは「おいしいって何?」という疑問。これに関しては「飲んだ(食べた)ときに嬉しくなるのがおいしいということ」が一応の答え。液体の特性だけではなくて、飲む場所や状況によっておいしさは変わる、その意味では「飲んだときにうれしい」はパッと思いつく言葉では核心に近いような気がする。

そしてもう一つ、こちらを忘れていたのだけれど、「『おいしい』と言葉に出すってどういうこと?」という疑問。おいしいと思ったかどうかではなくて、他者がいるところでなにかを飲んだとき、それの感想を言う方がいいと思っていて、それは「おいしい」か「めちゃくちゃおいしい」しかないような気がしている。その意味で「ふつう」と思ってもそれは「おいしい」に入る。

しかし人に提供するものを作るときには「ふつう」と「おいしい」が一緒の認知になって言葉として出てくる状態はまずい。その辺は作るときとそれ以外とでスイッチを切り替える必要があるな、と思うなどする。