知る日々の日記

日記の再録です

2024.8.6

サッカーを辞めて時間ができた20歳のとき、友人と広島へ旅行した。田んぼに囲まれた田舎のホテルを拠点に、宮島の弥山に登り、厳島神社を見て、原爆ドームを歩いた。友人はその時の様子を「広島の地が与えてくる圧倒的な力」と形容していたが、その圧倒的な力は人が歴史を思い出すことで生まれるものであり、思い出す力とはすなわち想像力のことだと今ならわかる。あれから少しでも私の想像力は成長しただろうか。今の私は広島の地で何を感じることができるだろう。

コロナで嗅覚をしばらくなくしていたが、今日の蒸留でグラスを渡されて嗅いだとき、嗅覚が戻っていることを確信して小躍りした。蒸留という作業では、最初の流出時に特徴的な悪い部分があり、それを除いてからきれいな液体だけを取る。その切替のタイミングで出た液体を嗅ぎ、間違いなく、いま、切り替えるべきだと感じた。久しぶりのことだった。

自分の感覚がはっきりと現実を捉えていると確信できるのはなんと嬉しいことだろう。自分が生きるということの根拠はここにしかないと改めて思った。自分が感じている、これは間違いない、という確信。

しかし、確信だけではいけないのも真実である。事実認識に誤りがあれば、それは正されていかなければならない。嘘を事実とするわけにはいかない。

今日の広島平和記念式典には現時点で虐殺を行なっているイスラエルという国家の大使も招待されていたが、イスラエル国家の問題を考えるとき、いまのガザで行われている虐殺をヨーロッパの国々が追求できないことの背景には、様々な事実認識に起因する問題があるのではないか(藤原辰史さんから見たドイツの話はまったくしらないことだらけで勉強になった)。そしてそれは日本が行った植民地政策に自らが無知であること、それ故に他者の認識を根拠を持って批判することができないことにもつながってくる。攻撃ではなく、「あなたが言っていることはこういう事実と矛盾している」と指摘することは必要だ。その申し出はすぐに達成されなくても、間違っていることを知らせ続け、それを広く他者の目に触れるところで行うことは、他者の目から見てどちらがまっとうかを判断してもらう機会になる。自分が無知であることは、社会にできるだけよい形で寄与するための機会を逸することになる。

 

話があっちこっちにそれているような気がするが、想像力と五感、それらを自分なりに束ねて、自分のすべきことを見つけて淡々と行う人の姿として、長崎の原爆で被爆した医学博士、永井隆の「文化生活」と題したエッセイを引用して終わりたい。

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 東山さんからお茶に招かれた。戦争の前の話である。妻と二人客間に通された。じっこんの間柄だから堅苦しいあいさつもない。東山さんは先祖代々海の殿様──五島随一の漁場の所有者である。今の成金ではない。客間の調度は堂々として底光りしている。家族も高等教育を受けた教養の高い人ばかりだ。私らは奥様がもてなすメロンやココアを味わいながら、ブルジェの作品を論じたり、電蓄で雑音のないモーツァルトを聞いたりしばらく清談に時を過ごした。
 快い酔い心地で二人はうちへ帰った。帰ってみるとわが家のみすぼらしさにいまさらのごとく驚いた。どっかりと六畳の間に座る。ぼくの机は刑務所の廉売会で手に入れた安物である。その上にエックス線写真やらノートやら原稿紙やら山積みしている。室の反対側にミシンがある。縫いかけのワイシャツの片そでがぶら下がっている。
「東山さんのおうちりっぱなものですねえ、あんなのを文化生活と言うのでしょ」妻がアッパッパに着替えながらしみじみ言う。
「うん、文化生活だ」
「あんな生活、私らには一生かかってもできませんわ」
「あれはぼくらに縁のない文化生活だ、東山さんのは文化を享楽する生活だよ、東山さんたちは文化の消費者なんだ」
「では──私たちのは?」
「文化を創作する生活だ、ぼくたちは文化の生産者なんだよ」
「──ほんとに、そうだわ」
 妻は急にほがらかになって、ミシンをコトコトとふみはじめた、ぼくは刑務所製の机に向かいラウェ斑点の計測にとりかかる……文化の生産工場、六畳の間に、はだぬぎむこうはちまきの原子医学者と、アッパッパのデザイナーが脳に汗をかきながら働いている――
 ──その妻も死に、六畳の間も机も焼け、焼け跡のバラックに戦災者毛布にくるまり廃人の身を横たえているいまの私だ。こんなざまでありながら、私はやっぱり文化人だと自ら信じている。それは毎日論文を書き続けているからである。

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引用元https://www.aozora.gr.jp/cards/000924/files/54870_48035.html