知る日々の日記

日記の再録です

2024.1.14キュビズム展

国立西洋美術館で開催中のキュビズム展を覗いてみる。キュビズムという言葉と、割れた鏡に映る何者かを模写したようなイメージだけが手掛かりという、なんとも心許ない状況だったけれど、運動の出発点としてセザンヌも展示されていることを知って足を運ぶ。セザンヌが見たくてキュビズム展に行った人、あんまりいなそう。

近代絵画の父とも評されるセザンヌ。ついついモネやルノワールに誘われてしまって同じ美術館で展示されていても見逃していたセザンヌを、今日こそは、と意気込んで眺める。描かれるモチーフを言葉に換えて満足しがちな頭を引っ叩いて、目ではっきり見ようと努めるも、ただぼんやり見るだけの怠慢な態度に終始する。

さて、キュビズム。それまでの伝統的な絵画に飽き足らず、新たな表現を模索する中で生まれた新たな潮流は、形と色彩を純粋にそれそのものとして捉えようとする意欲に満ち溢れていて大きなエネルギーを感じる。展示室にはピカソやブラックらが描いた、もはやモチーフもわからなくなった絵画たちが並ぶ。その中に「円卓」というブラックの作品があり、それはテーブルの上に(たくさんのなにか)が置かれている絵なのだが、その(たくさんのなにか)が異様なエネルギーを放っている。

コローがルドンに伝えた「不確実なもののかたわらに、確実な物を置きたまえ」というアドバイスをふと思い出す。私にとってブラックが描く静物はどうも不確実なものに見えるのだが、円卓は私の習慣的なものの見方においても捉えられる姿を保っていて、それら確実なものと不確実なものが一つの絵に収まった時、なにか得体の知れないもの(しかし同じ世界に存在して、本当は親しんでいるはずのもの)が私に迫ってきている感触を受けて、どうも彼らの想定した行き方ではないように思えるが、しかしこの先に彼らの目指したなにかがあるような気がする…と思ったところで疲労がピークに達したので展示室を出る。

キュビズムに線の解釈を強制されすぎて重くなった身体を引きずり、常設展にも足を運ぶ。見慣れた構図と見慣れたモチーフ。西洋宗教画の嵐。展示室の隅でカルロ・ドルチの「悲しみの聖母」が輝いている。欲しい。

 

数年前の自分ならキュビズム展を見に来ることはなかった。例えセザンヌが出ているとしても、また別の機会に、と流していただろう。その考えが変わったのは旭川で出会った友人のものの見方に教えられたところが大きい。

彼はイラストレーターとして鮮やかな色彩を操る人なのだけれど、ある時カフェで話していて、ここの漫画の陳列は巻の場所がめちゃくちゃだからどこに何があるかわからないですね、と話しかけると、周りを見渡して、たしかに言われてみれば、と返された。私は店に入った途端にそのことに気づいたが、彼はそうではなかったらしい。

話を聞いているうち、我々の情報を取り入れる順序に違いがあることに気づく。私の場合は店内を見渡した時に、まず文字情報が入ってくるが、彼の場合は色彩がまず来るらしい。それなので私はまず巻数が気になり、彼はそれらの色の組み合わせが気になるとのこと。初めて聞く話で、興奮する。さっそく目を閉じて、文字情報をできるだけ無視することをイメージしながら目を開ける。店内を見渡す。「ゴールデンカムイ」 いかんいかん、これではない。もう一度目を閉じて、うすぼんやりとさせつつ開ける。色と、それが占める空間が視界に映る。もう一度、目を瞑って開ける。色彩と空間。それらの組み合わせ。さっきまでいた店内と全く同じ場所なのに、全く違う光景が映る。なんだこれは、この人はこんな風景を四六時中見ているのか。そしておそらくこういう風に世界を捉えているのはこの人だけではあるまい。なんということだ、こんなに違うものを見て生きている人がいるとは。これを知るきっかけを言葉で与えてくれなければ、いつまでもこれを私は知ることはできなかった…

その時の体験は強く私の記憶に刻まれて、自分の感覚の局所性を反省させられた。仮に私が見ている言葉を(意味の容れ物)とするなら、色彩と形は(意味の血肉化したもの)と言えるだろうか、どうだろうか、わからん。わからんが、色彩と形に近づいた言葉を詩というのだろうなぁと直感する。だいぶキュビズムから遠くに来てしまった気がするが、キュビズムをはっきり捉えたいなんて動機はそもそもないのでこれでいい。

さあ、来週は何を見に行こうかな。