2024.1.28 仕事と生活

2024.1.28 私が(仕事と生活が一体になった生き方)という言葉を使う時に浮かぶイメージは、自分の心の赴くまま、強いられることなく"ついつい"やってしまうことが、他者から見ると仕事のレベルになっている、という幸福な姿として描かれるのだけど、それってどういう形なら存在可能なんだろうと疑問に思って、空想の中に思いつく要素を適当に並べてみる。しばらくそれらを空中で揉んでいると、抽象的な観念が集まって、大空を舞う鳥の群れが一つの生き物を象って見えるように、匿名の誰かが現れた。その誰かをちょっと眺めて、親しみのない人のことははっきり考えられないな、と思い直して空想ごと打ち消す。

少し遠くを見て、一息ついて、もう一度違う地点から考えてみる。冒頭の言葉に紐付けて、お世話になってきた多くの人たちの顔を思い浮かべる。その人たちの心は一体どんなものだろう。話してくれること、自然と見えてくること、それらを統合しても、(素直な人であること)以外の共通点はないような気がする。

とりあえず(素直な人であること)を思考の起点としてみよう。この(素直)という言葉もいろんな意味があるけれど、私としては(自分に対して嘘がないこと)とか、(できる限りのことは試してみる人)とかに近しい存在感をもつ言葉として使っているので、これらの言葉の力を借りて、(自分に嘘がなくて)(できる限りのことは試してみる)という状態を(素直)に近いものと言ってみよう。
ちょっと遠くに歩き出してしまった言葉をここで私自身に引き付けてみると、自分に嘘をつかないでいられて、できる限りのことは試してみる気力がある、という素晴らしい状態を保てている時の自分は、よく眠れていて、頭が整理されている状態の自分だな、と思いつく。睡眠については措くとして、頭が整理されているというのはどういう状況だろう。

「サッカー選手になりたい」と思った12歳ごろからノートをつけ始めて、それは習慣となって今も続いているけれど、「サッカーが上手くなるため」という目標がなくなってもノートをつけている理由は、たとえサッカーをしなくても、生きているだけで様々なことに揉みくちゃにされてしまう変化の大きい日々の状況を、自分なりの仕方でいいから理解していないと、日常生活のあらゆる場面で降りかかってくる突発的な(判断しなければならない事柄)に対応出来ないだろうな、という不安から来ているような気がする。サッカー選手になるための日々は茨の道で、少しでもいい方向へ進めるように自分と世界をよく見る必要があったけれど、普段の生活というものも十分に茨の道で、どこで何がどうなるかさっぱりわからない。洪水の日も凪の日もあるから、洪水の時は安全な場所で休んで、凪の日は高台から美しい沖を眺める準備をしておかなきゃならない。

これは(仕事と生活)とまではいかなくても、(サバイブと生活)が一体になった生き方と言えるかもなぁ、と思ったところで、いや、仕事もサバイブの手段であるから、その意味ではすでに私自身も(仕事と生活)が一体となった生き方の中に入り込んでいたんだなぁ、と思うなどする。

逆に(あまり眠れていなくて、頭が整理されていない)状態の自分はどんなものだろうと考えてみると、そんな時は心があっちこっちに行ってぼんやりしてしまうし、判断の基準も曖昧になるし、その中途半端な判断すらなんの検討もないやっつけの判断なので大切にしない、という状況が起こる。これも一種の(心の赴くまま、ついつい)の生き方ではあるけれど、それを生きる自分には喜びを感じない。土台となる私が落ち着きを失っていると何も喜べない。しかしその土台となる私はとんでもなく弱いもののようなので、それがなんとか生き残れるように、その意味で私が(サバイブ)できるようにノートを書いて、頭を整理しておこうとしているのかもしれない。

今回の(サバイブ)という言葉はただの生存ではなくて、私の心のとても深いところにある落ち着きみたいな意味で使っていて、とりあえずその(深い落ち着き)さえ保つことができれば生活は続く、その落ち着きを生活と両立することは案外難しいから、いま両立できていることはとてもえらいことだ、という単純さに舞い戻ることができたのはわりといい着地なんじゃないかな、なんて思ったりした日曜日。

(仕事と生活)