2024.2.11 Bas Devosの二作品鑑賞など

ポケットのスマホが揺れて、「結婚式で酒飲みすぎてそっち遊び行けなさそう、ごめん」と友人から連絡が入った。蔦屋書店の小さな椅子に座り、「結婚式、そういうものすぎる」「また気が向いたら遊び来て!」と返信を打って、明日の予定が空いたな、と蔦屋の本棚を眺める。再びスマホを取り出して、bunkamuraのホームページを開き、SNSで目に入って気になっていたBas Devos作品を昼・夜と立て続けに予約。

寝て、起きて、コインランドリーで洗濯、コンビニおにぎりとインスタントみそ汁の朝食、洗濯を待つ間にちょっと家に戻ってお茶、読書、そろそろ60分経つ、取りに戻ってそれらを畳んで、また家に戻る。洗濯物と車を置いて電車に乗る。久しぶりの渋谷。人が多すぎる、というありきたりの感想しか出てこない。

さて、映画。「Here」は高層ビルになるらしき高層鉄筋コンクリートの映像から始まる。様々な肌色、様々な言語、様々な仕事。16mmフィルムで撮ったらしきその映像は優しく、光の粒は大きさによってそれぞれ捉えやすい感情があるんだろうな、なんてことを思う。映画を観ながら、街には街の、森には森の速度があるなと思う。速度は変化。Hereが注視する二人の男女は、街と森の間にある速度を進んでいく。

スクリーンの中に入り込んでいた。ふとスクリーンを眺める自分に戻り、映像の各部分を見つめながら、静かなユーモアが散りばめられているのがアキ・カウリスマキ作品に似ているように思った。

小津やカウリスマキの作品は会話の間の広いことに特徴がある気がする。この映画もそうだった。特に主人公の男の会話の間はそうだった。それは私に心地よかった。

「Ghost tropic」は終電を逃して歩くしかない人という親近感の湧く主人公が設定されているが、その人の心根は、私と遠く隔たって優しい。「中動態の世界」の著者であり哲学者の國分功一郎さんは、聖書から善きサマリア人の話とイエスの言葉を引用し、「人は誰かの隣人(である)のではなく、隣人(になる)のです」と言っているが、まさしくこの「Ghost tropic」の女性はなんの躊躇いもなく路上生活者の隣人(になり)、その姿をみる私は、なぜ彼らの隣人(になろうとしない)のだろうと思う。スクリーンを前に、様々な言い訳が湧き出てくるのを感じる。私は誰の隣人になろうとし、誰の隣人を辞めてきたのだろう。

劇場内が明るくなる。エレベーターで地上に降り、歩き出す。遠方で営業しているうつわ屋さんが東京でイベントをしているらしく、歩いて向かう。同じ建物に本屋と服屋もあり、東京は狭いところに意味を込める場所なんだなぁと思う。

東京をぶらつき、はるばるドイツから運ばれてきた瓶ビールを飲み、鎌倉へ向かう電車に乗る。今日は誰とも喋らなかった。自分自身には何度か話しかけた。ポツポツ雨が降っている。何度も聴いた音楽を今日も聴く。何度も見た景色を今日も見る。同じ道を歩き、同じ街を抜ける。濡れたアスファルトが電灯を反射して、白と黒と黄色の混じった色で光っている。

 

2024.2.12 サマリア人ソマリア人になっていたので訂正。よい海賊?