知る日々の日記

日記の再録です

2024.2.12 「哀れなるものたち」

 

 

(本編の内容を含みます)

 

 

 

 

「哀れなるものたち」の鑑賞後にネットの評価を眺めていると「どこにも共感できるところがなかった」と書いているものがあって、その人にとっては残念な体験だったのかもしれないけれど、ランティモスの描く映画世界の非現実的で非倫理的、幻想的かつ旧時代的というあらゆる「ありえなさ」の濁流の中にあって際立つ、ベラの「現実的かつ実験的」な進み方には共感を覚えた。

映像が始まってすぐに感じる、音、色彩、視線のあらゆる不調和はベラの世界そのものであろうし、それらが少しずつ整ってくるに従ってベラは世界を自己流に秩序立てる力を得る。ベラは胎児の脳と母親の身体である。そして、胎児の身体と母親の脳はもうどこにもない。それらは物理的に繋ぎ合わされることなく消滅した。それぞれに宿っていた魂は今どこで何をしているか、という言葉は「ゴッド」によって否定されるだろう。であればこそ、ベラとは一体誰なのだろうか?

人がその人であるとはどういうことか?何をもって言えるか?

ベラはあらゆるものを知ろうとする。ベラを縛りつける「良識ある社会」に唾を吐く(フリをする)ダンカンと共にリスボンへ飛び、傷を知り、言葉を知り、破滅してでも未知の状況へ飛び込んでいく。自分の心でデータを取り、飽きたらやめる。次に進む。その関心のスイッチの切り替わる速度がとても速いことは彼女の特殊性だろうが、知りたいと思う心を持つ一人の人間として、ベラの進み方には共感できる。

そしてダンカンは実際、ベラほどには「良識ある社会」から徹底して排除された存在ではなく、その良識から垂れる甘い蜜を吸い、自分に都合の悪いところには毒づく、母親をババアと呼びながら出されたメシは三食きっちり食べる甘えた子どものような存在であり、そもそも彼の仕事は法律を盾にする弁護士である。映画館を出て冷静になってみると、自分が一番よく観るべきなのはベラではなくダンカンなのだという気がする。

その点、ベラのアウトサイダーっぷりは潔い。まず、ベラのような出自のものが他に存在しない。それによって他者と過去の共有による親密さを得ることができない(ベラは映画を通じて他者に共感することがとても少ないし、慰めてほしい時には慰められない。想像力を持って他者の心に寄り添う機会がない者の心には、周りの誰も想像力を持って寄り添わない。言語的理解によって自己を知ろうとするベラは、自分に対するのとまったく同じ仕方で、ゴッドの言語をそのままの意味で理解しようとする。ゴッドもベラに対しては同じであった。ゴッドとベラの間には、確かに、心の交流があったと言いたい)。

また、ベラにはこれといった目標がない。幼児期が極端に短い(むしろ、ほぼ存在しないといっていい)ベラにとって、あらゆる事象は新発見であり、先入観及びバイアスが存在しない。ベラが成長によって整えたのは世界を知っていく彼女なりの「方法」であって、方法はそのまま現在にはなり得ない。まだベラは現在を知る途上であり、その「知る」ということ自体が終わらない限り、もしくは「知ることそのものよりも興味深い事柄」が現れない限り、ベラには現在より優先すべき未来は生まれないだろう。

ベラは母親および胎児の過去を興味を持って眺めるが、それは(ベラ・バクスターではない)と言い切る。この時点でベラは、ゴッドの元で過ごした時期以前は彼女自身の過去ではない、という判断を下した。ベラは自分が何者であるか、そして何者ではないかを自分で決めた。

ベラはパリの娼館で働きながら社会主義者の集会に行くが、それは社会主義という言葉や観念に惹かれているのではなく、船旅で貧しい人々の存在に気づいたことで受けた心の傷から要請された探究心であろう。それは「社会主義が実現された理想的な社会」という目標を達成するための準備ではなく、今ここにある傷に対しての現実的行動であろう。

私はベラに対して「共感」という言葉を使ってきたが、「憧れ」という方が正しい気がする。私はベラの恐れのなさに(うつくしさ)を感じるが、実際の私にはそういう(うつくしさ)は備わっていない。その点だけ取ってもベラの心を理解することはできず、遠い星の瞬きを眺めるようにベラの心らしきものを眺めるのにとどまる。

ダンカンには憧れないし憧れたくないが、しかしダンカンのことがわかってしまうような気がしてならない。その意味では、ダンカンを通してベラを見ているような気がする。

共感という言葉に戻ろう。やはり私はベラに共感はできないが、最初に言った通り、(ベラの「現実的かつ実験的」な"進み方"には共感を覚えた)のである。

進み方。ベラそのものではなくて、ベラの進み方に共感した。ベラの心はわからないけど、ベラがその道を選ぶのはよくわかる。私もそれを選ぶよ、同じ理由かは知らないけど。そういう感情をベラの進み方に抱いている。私のいう共感は、だいたいこの辺のところで止まっているような気がする。

映画の終盤、ベラとゴッドの、中途半端な想像力ではなく、徹底的な言語化による意志の疎通を土台とした関係性には、共感できないという前提があるからこそ出来る方法で可能な限り互いに近づこうとする努力を感じる。

考えれば考えるだけ楽しめる映画だと思うけれど、最初の興奮はだいたい収まりつつある。一旦この辺で終えて、また気が向いたら書き足すことにする。

 

2024.2.11 Bas Devosの二作品鑑賞など

ポケットのスマホが揺れて、「結婚式で酒飲みすぎてそっち遊び行けなさそう、ごめん」と友人から連絡が入った。蔦屋書店の小さな椅子に座り、「結婚式、そういうものすぎる」「また気が向いたら遊び来て!」と返信を打って、明日の予定が空いたな、と蔦屋の本棚を眺める。再びスマホを取り出して、bunkamuraのホームページを開き、SNSで目に入って気になっていたBas Devos作品を昼・夜と立て続けに予約。

寝て、起きて、コインランドリーで洗濯、コンビニおにぎりとインスタントみそ汁の朝食、洗濯を待つ間にちょっと家に戻ってお茶、読書、そろそろ60分経つ、取りに戻ってそれらを畳んで、また家に戻る。洗濯物と車を置いて電車に乗る。久しぶりの渋谷。人が多すぎる、というありきたりの感想しか出てこない。

さて、映画。「Here」は高層ビルになるらしき高層鉄筋コンクリートの映像から始まる。様々な肌色、様々な言語、様々な仕事。16mmフィルムで撮ったらしきその映像は優しく、光の粒は大きさによってそれぞれ捉えやすい感情があるんだろうな、なんてことを思う。映画を観ながら、街には街の、森には森の速度があるなと思う。速度は変化。Hereが注視する二人の男女は、街と森の間にある速度を進んでいく。

スクリーンの中に入り込んでいた。ふとスクリーンを眺める自分に戻り、映像の各部分を見つめながら、静かなユーモアが散りばめられているのがアキ・カウリスマキ作品に似ているように思った。

小津やカウリスマキの作品は会話の間の広いことに特徴がある気がする。この映画もそうだった。特に主人公の男の会話の間はそうだった。それは私に心地よかった。

「Ghost tropic」は終電を逃して歩くしかない人という親近感の湧く主人公が設定されているが、その人の心根は、私と遠く隔たって優しい。「中動態の世界」の著者であり哲学者の國分功一郎さんは、聖書から善きサマリア人の話とイエスの言葉を引用し、「人は誰かの隣人(である)のではなく、隣人(になる)のです」と言っているが、まさしくこの「Ghost tropic」の女性はなんの躊躇いもなく路上生活者の隣人(になり)、その姿をみる私は、なぜ彼らの隣人(になろうとしない)のだろうと思う。スクリーンを前に、様々な言い訳が湧き出てくるのを感じる。私は誰の隣人になろうとし、誰の隣人を辞めてきたのだろう。

劇場内が明るくなる。エレベーターで地上に降り、歩き出す。遠方で営業しているうつわ屋さんが東京でイベントをしているらしく、歩いて向かう。同じ建物に本屋と服屋もあり、東京は狭いところに意味を込める場所なんだなぁと思う。

東京をぶらつき、はるばるドイツから運ばれてきた瓶ビールを飲み、鎌倉へ向かう電車に乗る。今日は誰とも喋らなかった。自分自身には何度か話しかけた。ポツポツ雨が降っている。何度も聴いた音楽を今日も聴く。何度も見た景色を今日も見る。同じ道を歩き、同じ街を抜ける。濡れたアスファルトが電灯を反射して、白と黒と黄色の混じった色で光っている。

 

2024.2.12 サマリア人ソマリア人になっていたので訂正。よい海賊?

2024.1.28 仕事と生活

2024.1.28 私が(仕事と生活が一体になった生き方)という言葉を使う時に浮かぶイメージは、自分の心の赴くまま、強いられることなく"ついつい"やってしまうことが、他者から見ると仕事のレベルになっている、という幸福な姿として描かれるのだけど、それってどういう形なら存在可能なんだろうと疑問に思って、空想の中に思いつく要素を適当に並べてみる。しばらくそれらを空中で揉んでいると、抽象的な観念が集まって、大空を舞う鳥の群れが一つの生き物を象って見えるように、匿名の誰かが現れた。その誰かをちょっと眺めて、親しみのない人のことははっきり考えられないな、と思い直して空想ごと打ち消す。

少し遠くを見て、一息ついて、もう一度違う地点から考えてみる。冒頭の言葉に紐付けて、お世話になってきた多くの人たちの顔を思い浮かべる。その人たちの心は一体どんなものだろう。話してくれること、自然と見えてくること、それらを統合しても、(素直な人であること)以外の共通点はないような気がする。

とりあえず(素直な人であること)を思考の起点としてみよう。この(素直)という言葉もいろんな意味があるけれど、私としては(自分に対して嘘がないこと)とか、(できる限りのことは試してみる人)とかに近しい存在感をもつ言葉として使っているので、これらの言葉の力を借りて、(自分に嘘がなくて)(できる限りのことは試してみる)という状態を(素直)に近いものと言ってみよう。
ちょっと遠くに歩き出してしまった言葉をここで私自身に引き付けてみると、自分に嘘をつかないでいられて、できる限りのことは試してみる気力がある、という素晴らしい状態を保てている時の自分は、よく眠れていて、頭が整理されている状態の自分だな、と思いつく。睡眠については措くとして、頭が整理されているというのはどういう状況だろう。

「サッカー選手になりたい」と思った12歳ごろからノートをつけ始めて、それは習慣となって今も続いているけれど、「サッカーが上手くなるため」という目標がなくなってもノートをつけている理由は、たとえサッカーをしなくても、生きているだけで様々なことに揉みくちゃにされてしまう変化の大きい日々の状況を、自分なりの仕方でいいから理解していないと、日常生活のあらゆる場面で降りかかってくる突発的な(判断しなければならない事柄)に対応出来ないだろうな、という不安から来ているような気がする。サッカー選手になるための日々は茨の道で、少しでもいい方向へ進めるように自分と世界をよく見る必要があったけれど、普段の生活というものも十分に茨の道で、どこで何がどうなるかさっぱりわからない。洪水の日も凪の日もあるから、洪水の時は安全な場所で休んで、凪の日は高台から美しい沖を眺める準備をしておかなきゃならない。

これは(仕事と生活)とまではいかなくても、(サバイブと生活)が一体になった生き方と言えるかもなぁ、と思ったところで、いや、仕事もサバイブの手段であるから、その意味ではすでに私自身も(仕事と生活)が一体となった生き方の中に入り込んでいたんだなぁ、と思うなどする。

逆に(あまり眠れていなくて、頭が整理されていない)状態の自分はどんなものだろうと考えてみると、そんな時は心があっちこっちに行ってぼんやりしてしまうし、判断の基準も曖昧になるし、その中途半端な判断すらなんの検討もないやっつけの判断なので大切にしない、という状況が起こる。これも一種の(心の赴くまま、ついつい)の生き方ではあるけれど、それを生きる自分には喜びを感じない。土台となる私が落ち着きを失っていると何も喜べない。しかしその土台となる私はとんでもなく弱いもののようなので、それがなんとか生き残れるように、その意味で私が(サバイブ)できるようにノートを書いて、頭を整理しておこうとしているのかもしれない。

今回の(サバイブ)という言葉はただの生存ではなくて、私の心のとても深いところにある落ち着きみたいな意味で使っていて、とりあえずその(深い落ち着き)さえ保つことができれば生活は続く、その落ち着きを生活と両立することは案外難しいから、いま両立できていることはとてもえらいことだ、という単純さに舞い戻ることができたのはわりといい着地なんじゃないかな、なんて思ったりした日曜日。

(仕事と生活)

2024.1.14キュビズム展

国立西洋美術館で開催中のキュビズム展を覗いてみる。キュビズムという言葉と、割れた鏡に映る何者かを模写したようなイメージだけが手掛かりという、なんとも心許ない状況だったけれど、運動の出発点としてセザンヌも展示されていることを知って足を運ぶ。セザンヌが見たくてキュビズム展に行った人、あんまりいなそう。

近代絵画の父とも評されるセザンヌ。ついついモネやルノワールに誘われてしまって同じ美術館で展示されていても見逃していたセザンヌを、今日こそは、と意気込んで眺める。描かれるモチーフを言葉に換えて満足しがちな頭を引っ叩いて、目ではっきり見ようと努めるも、ただぼんやり見るだけの怠慢な態度に終始する。

さて、キュビズム。それまでの伝統的な絵画に飽き足らず、新たな表現を模索する中で生まれた新たな潮流は、形と色彩を純粋にそれそのものとして捉えようとする意欲に満ち溢れていて大きなエネルギーを感じる。展示室にはピカソやブラックらが描いた、もはやモチーフもわからなくなった絵画たちが並ぶ。その中に「円卓」というブラックの作品があり、それはテーブルの上に(たくさんのなにか)が置かれている絵なのだが、その(たくさんのなにか)が異様なエネルギーを放っている。

コローがルドンに伝えた「不確実なもののかたわらに、確実な物を置きたまえ」というアドバイスをふと思い出す。私にとってブラックが描く静物はどうも不確実なものに見えるのだが、円卓は私の習慣的なものの見方においても捉えられる姿を保っていて、それら確実なものと不確実なものが一つの絵に収まった時、なにか得体の知れないもの(しかし同じ世界に存在して、本当は親しんでいるはずのもの)が私に迫ってきている感触を受けて、どうも彼らの想定した行き方ではないように思えるが、しかしこの先に彼らの目指したなにかがあるような気がする…と思ったところで疲労がピークに達したので展示室を出る。

キュビズムに線の解釈を強制されすぎて重くなった身体を引きずり、常設展にも足を運ぶ。見慣れた構図と見慣れたモチーフ。西洋宗教画の嵐。展示室の隅でカルロ・ドルチの「悲しみの聖母」が輝いている。欲しい。

 

数年前の自分ならキュビズム展を見に来ることはなかった。例えセザンヌが出ているとしても、また別の機会に、と流していただろう。その考えが変わったのは旭川で出会った友人のものの見方に教えられたところが大きい。

彼はイラストレーターとして鮮やかな色彩を操る人なのだけれど、ある時カフェで話していて、ここの漫画の陳列は巻の場所がめちゃくちゃだからどこに何があるかわからないですね、と話しかけると、周りを見渡して、たしかに言われてみれば、と返された。私は店に入った途端にそのことに気づいたが、彼はそうではなかったらしい。

話を聞いているうち、我々の情報を取り入れる順序に違いがあることに気づく。私の場合は店内を見渡した時に、まず文字情報が入ってくるが、彼の場合は色彩がまず来るらしい。それなので私はまず巻数が気になり、彼はそれらの色の組み合わせが気になるとのこと。初めて聞く話で、興奮する。さっそく目を閉じて、文字情報をできるだけ無視することをイメージしながら目を開ける。店内を見渡す。「ゴールデンカムイ」 いかんいかん、これではない。もう一度目を閉じて、うすぼんやりとさせつつ開ける。色と、それが占める空間が視界に映る。もう一度、目を瞑って開ける。色彩と空間。それらの組み合わせ。さっきまでいた店内と全く同じ場所なのに、全く違う光景が映る。なんだこれは、この人はこんな風景を四六時中見ているのか。そしておそらくこういう風に世界を捉えているのはこの人だけではあるまい。なんということだ、こんなに違うものを見て生きている人がいるとは。これを知るきっかけを言葉で与えてくれなければ、いつまでもこれを私は知ることはできなかった…

その時の体験は強く私の記憶に刻まれて、自分の感覚の局所性を反省させられた。仮に私が見ている言葉を(意味の容れ物)とするなら、色彩と形は(意味の血肉化したもの)と言えるだろうか、どうだろうか、わからん。わからんが、色彩と形に近づいた言葉を詩というのだろうなぁと直感する。だいぶキュビズムから遠くに来てしまった気がするが、キュビズムをはっきり捉えたいなんて動機はそもそもないのでこれでいい。

さあ、来週は何を見に行こうかな。

 

 

 

くらげのこころ

僕のこころは くらげのこころ

海に溶け出す とろとろのこころ

君のこころは アメフラシのこころ

海に溶け出す 鮮やかなこころ

 

とろとろのこころと 鮮やかなこころが

海水とまじって  すこしにごった

かなしいね    僕らのこころ

このままどこかへ  流れるみたい

 

僕のこころは くらげのこころ

うまく形を保てない

自立不全のヤワなこころ

 

君のこころは アメフラシのこころ

窓から捨てる吸い殻みたいな

これっぽっちも うれしくないこころ

 

大海原は    こころの布団

溶けたこころは 眠りについて

二度と起き出す ことはない

僕のこころが  くらげをやめて

ただのこころに なったとしたら

二度と起き出す ことはない

二度と起き出す ことはない

 

でもね、きみ

僕らのこころの にごったやつも

大海原で    寝てるとしたら

ねえ、きみ

ほんのすこし、いい気分にならないかい

 

  2023.11.27 くらげのこころ

「海は広いし、深いよ」

山へ行こうと思ったのに、海に来てしまった。ここは熱い海、熱海。


友人と朝の電車に乗り、缶ビールを開けて歓談。しばらくすると「次は終点、熱海、熱海」とのアナウンスが聞こえてくる。あれ?小田原は?


終点に向かう車窓から大海原を眺めていると、近海に浮かぶ小さな島が目に入る。
「あれ、渡れるよ」と友人が言う。
「まじか、行くしかないじゃん」
大涌谷で黒たまごを作る予定は一旦措いて、熱海から島へ行くことにする。気の置けない友人とはこういう人のことを言うんだろうなぁ、と思って嬉しくなる。


フェリーを調べると出航時刻がもう数十分後に迫っていて、タクシーを拾う。無事港につき、無事チケットを手に入れて、無事乗船。餌付けされたカモメたちがフェリーの後を追ってくる。我々の手元には何もないので、写真だけでもと思って近付く。数羽が低空飛行でフェリーに近づき、ここぞという場面で友人がカメラを片手に近づくと、一斉にカモメたちが飛散した。そういう星に生まれついたのかもしれないね、仕方ない。


島に上陸。歩いて20分ほどあれば一周できるとてもコンパクトな島で、到着してから気づいたのだが、この島ではほぼ現金しか使えない模様。財布を覗くとお互いに昼食の予算がほとんどないことがわかり、食堂に入ることは諦めて、友人はおにぎりを、私は6個入りのバターロールとスライスチーズおよびハムを購入。防波堤に座って食べ始めた途端に、友人のしゃけおにぎりはトンビに襲われて海の底へ。肩を落とす友人。トンビの来ない場所へ移動し、バターロールを分け合って食べる。


安くて甘めの泡を飲みながら、海を眺めて話をする。たわいもない話、というのが友人間で行う会話の相場らしいが、彼との会話は総じて興味深く、最近の関心事を彼なりに調査、検証した体験が多く含まれていて、私は相槌を打ちながらこれまでの全ての時間で検証してきたいくつかの原則と体験の標本を引っ張り出して彼に応える。彼はそこから新たに発見を引き出して別の切り口から疑問を掘り起こす…。どうやって飽きればいいんだろう?その日、彼とは12時間行動を共にし、間断なく酒を飲み、話し、笑った。まったく稀有な存在だと思う。


島から街へ戻るフェリーで、座り込んで海を眺めていた。フェリーのスクリューが空気と水を巻き込んで後ろへ吐き出す。船の後ろに薄水色の跡が残る。しばらくすると白い泡が抜け、深い青が戻ってくる。さっきまで眺めていた薄水色の道は周りの青に溶け込んで、船の周り一体が同じ青、つまり海であることに気づく。海はこんなに広いのか。なんとも馬鹿みたいな感想だけれど、本当に心が動くと、これまで何度も口にしてきた言葉がまったく違う響きで感じられるのだ。「海は広いし、深いよ」と友人が呟いた。その通りだな、と私は思った。

 

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「亡くなったって、今朝」

「そう、もう結構なトシだったからね」

「聞いた話だけど、昔いた施設ではいろいろあったみたいで、もうずいぶんな歳だった時にここに来て、体はひょろっとしていたし、毛も所々抜けていたけど、たぶん水が合ったのね、数ヶ月で体もふっくらして、庭を走り回ってる姿は爽やかだったわ、美しかったわ」

「そうねぇ、普段は他のふたりと一緒にいたけど、ちょっと離れて彼女とふたりきりになった時は、苦労が多かったからか、どことなくこちらを安心させる雰囲気があって、なんだか居心地が良かったわ」

「そうかもねぇ、たしかに優しい空気はあったわ」

 

夏蜜柑の木が、数日前に亡くなった鶏のことを話している。

 

「あのひとの体はどうなったのかしら?」

「どうなんでしょう。堆肥にでも混ぜるのかしら?」

「動物だからね、難しいんじゃないの。それよりそのまま埋めておくのがいいんじゃないの、自然らしくていいワ」

「そうね、私たちの実もたいていはそうなっているし、なんだか自然な感じがするわね」

 

夏蜜柑はカラダいっぱいに実を提げたまま、やわらかな秋を迎えた。静かな場所で生きるのが彼女たちの自然である。

 

「亡くなったあのひと、最期の方はいつもひとりだったわね」

「そうねぇ、半目を開けて暗がりにいたわね」

「どうなのかしら、死期が近づくと暗いところにいきたくなるものなのかしら」

「そうかもね、でも山に入ったりはしなくて、ずっと他の人の気配のある場所で静かにしてたわね」

「そうだったわね、死ぬ時に、静かに誰かのそばにいられるのって、幸せなことかもしれないわね」

 

山から野鳥の声が響く。木々は揺れ、葉の擦れ合う音が反響する。雲間から陽が差して、教室に怖い先生が入ってきた時のような、ピンとした沈黙が森を包む。夏蜜柑たちもお喋りをやめる。

また風が吹く。残された鶏たちは、庭師の剪定した木々の下に潜り、拠り所をなくして地面を這う芋虫をつついて食べている。

 

もうすぐ冬が来る。

 

 

(この物語には想像が混ざっていますが、鶏を想う気持ちは確かにここにあります)