知る日々の日記

日記の再録です

2024.8.16

「ことばと、つきあってみてください。何があるかはわからないけれど、そのうちにきっといいことがありますよ」

荒川洋治のエッセイ集「忘れられる過去」に収められている、「きっといいことがある」という一篇で、谷中にあった、とあるお店の男性が、詩を書く若い学生に話した言葉が冒頭のことばである。

小学生のころ、国語の授業で原稿用紙を渡されて作文を書いたときの気持ちをよく覚えている。周りが一枚書くのに苦労している中、二枚も三枚ももらって用紙いっぱいに書いた。その日思ったことや周りで起きたこと、それらを文章にまとめる。書くことが楽しいと気づいたのはその時だった。

中学生になってサッカーでプロになることを目指し始めてからは、書くことは反省と深く関わるようになった。自分の理想と現実はなぜこんなにも違うのだろう。どうすればいいんだろう。誰にも相談できないことをノートに書くようになったのはその頃からだった。選手としてのレベルはどう見積もってもプロに達するようなものではなかったから、それをなんとかするために、できることは全部やろうと思っていた。苦しいこと、つらいことから目を背けていると、何もできない。

サッカーを辞めてからもノートを書く習慣は続いた。以前のように「プロになる」というような明確な目標はないから、納得のいかないこと、自分が自分でも気づかないところで許容してしまっている感情の嘘、そういったものを言葉にして眼の前に広げてみることが習慣化された。それは毎日を続けていくために重要なことだったし、そのおかげで認識できるものが増えている実感もあった。その意味で、わたしにとって書くことはいつも意味のあることだった。書くことは「ことばとつきあってみる」ということでもあるから、書いて、言葉と付き合うことで、自分なりに言葉と仲良くなっていける、そういう意味で「いいことがある」のだろうと思って、冒頭の言葉を受け取っていた。

最近、思いがけないところでいいことがあって、こんな、まったく予想もしていないことが起こるなんて、なんなんだろうこれは、と少し混乱していた。そうしたらその「いいこと」には言葉が関係していたことが徐々にわかってきて、「何があるかはわからないけど、きっといいことがありますよ」という言葉がふと思い出された。

言葉はわたしより大きな、なにか不思議なもの。これからもいろいろな仕方で、こつこつ言葉と付き合っていきたい。