知る日々の日記

日記の再録です

2024.8.7

園内にもさもさと生えるハーブを摘みながら、ポッドキャストを聞いていた。姉妹が雑談をする中で、姉が自身の発見を嬉々として話しているところを、妹に「なんでそんな難しく話すの?」と話の腰を折られる展開があって、ここまで露骨でなくてもこういう状況には何度も出くわしてきたなと思った。私は姉の話を「難しい話」とは全く思わなかったし、むしろ理路整然としていて、自分にはない視点での発見もあり、とてもおもしろく聞いていたのだが、妹にはそうは感じられなかったらしい。相槌の雰囲気としては「それはいいから早く次の話にいけ」という感じがあって、そういう感情はわからないでもないけど、そこで勝手に聞き手側が始末をつけてしまうと話し手は本当にやる気が無くなる。

発見には観察と分析があって、それを話すにはどうしても時間がかかる。その事象に興味がない場合、もっと簡単で理解しやすい枠組みに押し込んで話を終わらせたい、もっと面白い話をしたい、という雰囲気が醸し出されることはよくある。だから、自分の考えていることを目の前で全く違う解釈をされたうえで「興味もないですそのことには」という地獄みたいな雰囲気になる瞬間はけっこうある。それが続くと人間はやっぱり感情の生き物で、理性を土台にして嫌なこともちゃんと話し合える、みたいな状況が成立するのはとっても稀有なことなのだと痛感することになる。

知ることは変わること、と言われるけれど、聴くこともつまり知ることで、聴くことで自分が変わってしまう場合もある、結構生き物っぽいちょっと気持ち悪い時間でもある。その気持ち悪さに慣れてくると、自分が変わることに抵抗が減ってきて、人の話を聞くことが楽しくなる。ふるい皮膚がペリペリ剥がれるように、心が新しくなっていくのを感じる。