虚子に対する雑記録②

仕事に変化があったこともあり、久しぶりの更新です。

 

今回は三句取り上げます。まず一句目。

 

「縄朽ちて水鶏叩けば開く戸なり」

 

水鶏と書いて「くいな」と読みます。水辺にいる小さな鳥で、鳴き声がコンコンと戸を叩くように聞こえることから「くいなたたく」と言えば水鶏が鳴くことを指します。Wikipediaで調べました。

 

では、句を映像としてイメージしてみます。「縄朽ちて」とあるので、ある場所に戸があり、「水鶏叩く」でそこに水鶏がいることと、叩くor鳴くという行動も見えてきます。最後に「開く戸なり」と来て、戸が開く景色が現れます。

 

俳句には短さを保つために使われる特別な言葉が色々あって、「なり」もその一つです。「なり」は「である・がある」という意味で、それがそこに存在している、ということを添える言葉です。

 

「水鶏叩く」をどう捉えるかはふた通り考えられて、

1,縄の朽ちた戸が、水鶏がクチバシで叩いたことで開いた

2,縄の朽ちた戸が、水鶏が鳴いた時にちょうど風が吹いて開いた

の2種類あるんじゃないかと思います。

句中に、水鶏"叩けば"とあるので、叩くことと開くこととに連続性、関係性があります。それをどこまで曖昧に捉えるかはそれぞれの感覚に委ねられている気がしていて、私はカッチリした言葉として捉えるより、ぼんやりさせておく方が好きなので、2の意味でもいいなぁと思っていて、そうなると一つの句ですが二つの映像が現れてくる。一度で二度効くなんたらかんたらみたいな感じです。

 

では二句目。

 

「人病むやひたと来て鳴く壁の蝉」

 

人が病んでいる。おそらく、布団に横になっている。俳句のリズムを台無しにしてしまうことを承知で「ひたと〜」の部分をわかりやすい順序に入れ替えると、「蝉が壁にひたと来て鳴いている」といったところでしょうか。病気の人が布団で寝ている。そこに蝉が飛んできて、壁にひた、と止まって鳴き出した。

さて、俳句の特殊言葉シリーズその2です。「や」。これは俳句を読んでいるとかなりの頻度で現れます。

「や」はハッキリと言葉が切れるイメージで読んでいます。休符と同じように、「や」が現れたら2秒ほど心の中で無音の時間を作ります。では、その感じでもう一度読んでみましょう。

「人病むやひたと来て鳴く壁の蝉」

人が病んでいる状況はある程度続いていて、病んでいるなら、おそらく部屋は静かでしょう。その時間が「や」の効果で心の中に生まれます。そこに蝉が飛んできて、ひた、ととまった。「や」のおかげで、「ひた」という音がしっくり来ませんか。それは音というより、静かなことを擬音化したもののように思います。心の中で無音が鳴る、そんなことをこの句に感じました。

 

三句目です。

 

「雨に濡れ日に乾きたる幟かな」

 

特殊言葉が二つ出ました。「たる」と「かな」。

俳句を始めた頃、この短い詩の中にどれだけ面白いものを詰め込めるかと奮闘していました。今でもどうすればこれが入るかな、と悩むことはありますが、こんなに文字数要らないな、みたいなことも起こってきます。でも言葉を揃えて調子を整えるために何文字か増やしたい。そういう時に便利なのが「たる」です。

もし「たる」が無かったら。「雨に濡れ日に乾き…」うまく言葉がまとまらない。

「かな」も似たようなところがあります。調子を整える言葉というのが結構重要で、言葉にも潤滑油が必要なんです。生活にも息抜きの時間がないとカチカチになってしまうのと同じで、意味のない言葉も重要です。その辺りを感じさせてくれる小津安二郎の「お早う」はいい映画です。

 

幟はなんの幟でしょう。私は勝手にカラフルな両国国技館の幟をイメージしました。曇天の下、雨に濡れて色が濃くなった幟が重たそうに項垂れている。そして打って変わって晴れやかな空。陽を浴びて乾いたカラフルな幟が抜けるような青い空の下、風に吹かれてたなびいている。虚子が生きていた明治〜昭和の頃なら、茶屋の幟などでも風情があったでしょうね。

 

さて、今回はこんなところで終わりにします。

とても眠いまま書いているのでそのうち直すと思います。直さないかも。