美深へ

2021.5.6 松山農場の柳生さんに電話をかけた。手が離せないから1時間後にかけ直す、と言われて、階段だけが残された空き地で本を読みながら折り返しを待つ。

電話がかかってきて少し話すうち、あなたのことを覚えていますよ、と言われる。あの時は酒屋の社長の助けになりたいと言っていたのに、なぜやめたの、と言われて正直に、いろんな仕事をやってみたくなったから、と伝えた。そうですか、と柳生さん。少し考えたいから履歴書を送ってください、と言われて電話が切れる。

 

2021.5.7 柳生さんから連絡がある。「われわれがやろうとしている仕事のうちに、木の酒のプロジェクトというのがあります、あなたにはそれが軌道に乗るまでやってもらいたい、おそらく5年はかかるでしょう。」

-同日夕方-

本当に美深行きが決まるのか?不安だ。何が不安なのだろう?

まず、ここまで築いてきた人間関係が、距離的な制約を受ける。しかしそれも一時的な不安で、場所は変わっても会えばまた仲良くできると思う。

不安定な状況と闘っている友人の支えになることで、私自身も強く生きている気になっていたが、私は私のことで生きていかなければならない。彼らは彼らの道を進んでいる。私も私の道を見つけること。

 

2021.5.8 朝、起きた瞬間から不安が私に襲いかかってくる。自分が何より大事だと思っていながら、小さな理由で自分を蔑ろにしてないか?

今の自分は、人々の間で漂うだけで、何か一つは自分の時間を打ち込んでやることを望んでいる。俳句には少し触れることができて、もっといろんな句を詠みたいとは思うが、それはそれとして別の栄養を得たい。

 

-同日夕方-

植木屋での草取りアルバイト。9-16で6000円。

美深に行くことが少しずつ落ち着いて考えられてきた。人との直接の繋がりが遠くなるけれど、心の繋がりは変わらない。

私にできる限りのいい文章を書きたい。5年あるけれど、仕事があるから実際には2年分くらいの勉強時間。これまでのやり方を全く踏襲しないのは不可能でも、同じことはやらない。楽しむことを忘れないのが課題といえば課題かな。自分を追い込まないこと。美深も、特に最初の三ヶ月はムリしないように。

 

2021.5.9 朝起きる。昨日と同じく、起床の瞬間から不安感が襲う。鎌倉で得ている楽しみと気を紛らわすものが、土地を変えることで全てまっさらになることを思うと、不安感に苛まれる。しかし、だからこそ自分の心に支えを作る。文章をひとつ、何かの形にする。優れた文学をもっと読みたい。いろいろ手を打ちながら、飽きないように。

 

2021.5.10 北海道、美深へ行くことが決まる。美しいものを発見し、文章を読み、考え、動こう。

今はまだ、いろんなことがぐちゃぐちゃだ。しかし今が分岐点だ。ぐちゃぐちゃ加減が分岐点であることを暗示している。自ら作った機会だけれど、何かの流れに乗っている感覚もある。気にかかる友人がいる、父親の退職も近い、でも私の中には文学というやりたいことがある。そこに時間を使わなきゃ、必ず後悔する。他人のためだけに人生を使って後悔しないほど聖人にはなれそうもない。なんとか自分の人生の土台を、心の土台を、誰にも奪われない土台を作りたい。

こっちでお世話になった人には、不義理をせずに挨拶しておきたい。

 

2021.5.12 サッカーを辞めてから、感情を沸騰させないよう努めていた。熱し易く冷め易い性格のままでは、これまで陥ってきた失敗の轍をまた踏むだろうというちょっとした分析があって、自分の判断の大枠を決める行動様式、その行動を起こしている心の癖を変更する必要があると感じていた。

思考が沸騰すると妄想が生まれ、妄想は勝手に動いて広がって、見ているだけで面白い。結局、妄想だけで満足してしまうことも多かった。

思考の段階を平熱で過ごすよう気をつけていると、思考のあとに行動をセットにしないと満足いかなくなって、思考と行動が近くなった。これはいい結果だった。しかし、考えることで得ていた楽しみは減ってしまい残念ではある。しかしそれはそもそも妄想であり、行動のためには妄想による栄養補給は少ない方がよい。

 

自分で様々な考えを浮かべられるのは、一つの癖であり、特徴でもある。しかし、そこから「思い込み」という狂気を取り除きたくて試した「思考停止」という実験は、不安と怒りを減らした一方で、快感も減らす結果となった。

不安や怒りが他者を攻撃する原動力となってしまうし、自己正当化にも繋がっていく。それを減らしたくてこの実験をしていたが、思考停止は自己批判や精神と行動への分析力も弱めてしまう。社会システムへの論理的な批判も出来なくなる。

 

個人は所属する組織に適応すると同時に、自ら働きかけてその組織も自分に適応するように行動する必要がある。そうでなければ個人は組織の言いなりになるばっかりで、この、「場に適応を求める姿勢」を自分は欠いていたのだとごく最近気づいた。

 

文章を眺めると、言葉の音だけが頭で鳴って、書いた人間が言いたかったことを外から眺めるような形になる。

これまではその音に酔っていたし、書かれている言葉が掻き立てる想像力に酔っていた。

私にとって読むことは、想像のきっかけを探すことで、きっかけが現実と関係ないなんてことはどうでもよかった。想像はしばしば妄想だった。

心を一歩引いて読んでみる。それは、妄想しやすい自分を押しとどめて、まず、書かれていることを落ち着いて見てみようという試み。本当か?と思いながら読む。

そう思えるか、ではなくて、嘘じゃないか、都合がよすぎないか、どんな構造でそれがどんな作用を及ぼすか、について読みながら考える。その習慣化は自己批判の工程でもある。

 

(2022/3/4 追記 あっという間に、美深に来て9か月が経過しようとしている。不安も何も感じないうちにさまざまな仕事が降ってきて、一つ一つとぶつかっているうちに夏と秋が終わり、気付けば長い冬の終わりも見えてきた。

「木の酒のプロジェクト」という捉え所のなかった言葉も少しずつ現実味を帯びてきて、6月からは試験的な酒造りに関わることになりそうである。

リビングのストーブの前で友人の飼っているハムスターがかりかりと回し車を噛んでいる。それは噛むやつじゃない、走るやつなんだよ、と思念で訴えかけても勿論気付かない。珈琲を入れた水筒が気圧の変化でチ…チチチ…と不規則な音を立てている。

周りを眺めると、不思議なところで不思議なことをしているな、という気がする。よくわからないけど親しくなる、という行き方でしか物事とうまく関係を結べない気がする。関係を結べなくても、わかるという言葉が指す何かによって物事を慮るという手立ても残されている。わかると分けるを紐付けて考えると、それは、ある視点から見た解像度を上げるという意味に近いかしら?解像度を上げつつ親しくなるには、こちらのメモリが必要で、メモリはちょっと冷たい言い方だからうつわと言いたい、自らのうつわを育てる、そういう行為がこれまで知らなかった物事と関係を結ぶ上では重要になってくるのか、ならないのか、とにかくもうちょっとお金をうまく使って、来月中にはスリップしてワイヤーフェンスに突っ込んだカローラのバンパーを修理したい。